本部食堂事業部 OPENまで |
――キュービックを立ち上げた村山節子さんに、 本部食堂OPENまでのいきさつを伺いました。
生協の食材が食べられない
"生協"の食堂なんて!
生協運動で培った知識や経験を活かしたい。
――理事の任期を終えたあとも、生協と新しい形で関わりたい――と、 理事経験者8名でワーカーズコープ・キュービックを立ち上げたのが1990年3月。
まだ事務所もなく、講師活動や発送などの仕事が入るたびに集まる、というスタイルでのスタートでした。
食堂は既にありましたけれど、給食専門の業者が、生協から委託を受けて従事しているためか、あまり美味しくなく、冷凍食品を多用されていたので、“食”を扱う組織の食堂なのだから、「生協の食材を使って欲しい」「開発商品の試食くらいできるようにして」「生協の洗剤を使って欲しい」などといろいろ申し入れを重ねていましたが、 委託元からの配給材料で経営しているために難しいようでした。
夏ごろに、思いがけず
「業者が、食数が伸びず、利益が上がらないから事業縮小するようだ」と耳にして
俄然私たちはやる気満々。当時のコープかながわの理事長に相談したところ
「本当にできるの?」 「あなた方に何ができるの?」
私たちは、漠然としていたものに 実現の可能性が出てきたものですから 一致団結しました。
まず、業者の方が閉めるまでの1〜2ケ月、「ただでいいから研修させて欲しい」と申し入れました。そして、二人ずつシフトを組んでの研修・・・。
初めてでしたものね。大量に作るのも電磁調理器の扱いも。
たくさん、手早く作るプロの動き方を勉強しなければ、と、中華料理屋さんを紹介していただいて研修にも行きました。
理事の中では、若い時に企業内食堂での経験があるという一人だけが経験者。
あとはズブの素人集団でしたから。
同時に仕入れもしなければなりませんから、生協商品部の取引先を紹介してもらい、交渉をはじめました。
当時の職員の方々には 本当にお世話になりましたね。みなさんに来ていただいて コーヒー豆決定の試飲会やメニューの試食会をしたものです。
食堂だから、昼食時には いろいろな職員さんと毎日顔を合わせます。
そんなことから、「こんな仕事があるのだけれど・・・」と、新しい仕事を紹介いただいたり、
「今度こういうことをするのだけれど・・・」と、形になる前の事業のご相談をいただいたことも。
そんな情報の重なりから、別の働き方が生まれ、育っていった。
『ゆきげ』や『もしもしコープ』などの事業部の前身ができていった。
みんなの「思い」を集めて始まった食堂が、
キュービックとしては始めて定期収入のある仕事となり、生協、地域を巻き込んでの事業となった。
『MIO』が新しい働き方として特集をしてくれたことで、大きな反響が上がり、事務所もできた。
チャレンジしたのは食堂だったけれど、
食堂は食堂としての場以上に広がり、新しい仕事を生み、活動を広げ、新しい出会いをもたらした。
ひとりでは難しいことも みんなとだったら可能になる。
理事経験にこだわらず、広く組合員さんや専業主婦として家庭の中にいた女性に門戸を開く。
収入を得ることで自信が付き、社会に眼を向け、精神的に自立する女性が増える。
半面、人が増えれば「思い」をつなげていくことは難しくなる。
それがどんなに難しくなっても、キュービックは単なる働く集団や営利集団ではない・・・。
もちろんキャリアアップや合理化は必要。技術ももちろん必要。
けれどもそれ以上に、技術プラスアルファの部分を、さらに育てて行きたい。
職員さんに、パートナーとして喜んでもらえるキュービックを目指して。
『煮なます』の小鉢と魚の定食が個人的にはお気に入り。
新横浜の事務所の周りもこの15年の間にビルが並び、新しい飲食店も増えた。
でも、手作りの肉団子が食べられるお店はない。
見栄えは少々劣るかもしれないけれど食べ続けても飽きず、安心して食べられる手作りの家庭料理。
当たり前のように作っているけれど、そのノウハウをそのままにしておかないで、次につなげ、新しい一歩を踏み出してほしい。
食育の講師やイベントなど、ぜひ食堂発信で実施し、広げてほしいですね。
私はいつだって応援しています!
定食はA・B2種類から、 |
※村山さんからは、とても楽しいお話をたくさん伺いましたが、スペースの関係上、割愛させていただきました。(製作委員会)
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