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第1部 記念講演会

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 現平塚市長の大藏律子さんを講師にお迎えして、10時30分から記念講演会が開催されました。

生協の大先輩である大藏さんは鹿児島生まれ。小学校のころ、親の使いでPTAの役員選びの投票用紙を持って近所の家に頼んで回ったのが初めての社会参加。また、担任の先生が、クラスの誰が欠けてもクラスは成り立たない、と誰をも大切にしていたこと。その教えを受けて、修学旅行に参加するお金のない級友のために潮干狩りをしてお金を稼ぎ、皆で修学旅行にいったことなどを経験し、そのことが、皆の力で世の中は成り立っている、という考えの土壌になって今につながっているという貴重なお話を伺いました。

 

 大学卒業後、横浜で水処理研究所に就職。住んだのは横浜市泉区の谷戸入口の近くで、新興住宅地だったので自治会を立ち上げることになり、その婦人部作りに関わった。その後、「七夕祭り」に惹かれて平塚市に移り住んだものの、大変不便なところであり、また、畑のど真ん中にある団地で売られている野菜などがしなびているなど粗末な商品しか手に入らず、そこでも自治会が立ち上がったのを機に、私たち女性部も、と「横内団地消費者の会」を立ち上げた。最初にやったことは、伊勢原農協と一緒に団地内で日曜日の朝に朝市を開いて採れ立ての野菜を売ったこと。その後、トイレットペーパーや卵、牛乳などを共同で購入することへと発展していき、いよいよ湘南市民生協という生協との出会いを果たしました。

生協の家庭班長を引き受け、「より良いものをより安く」手に入れるために、一人でも多くの組合員を増やす努力をした。その後、となり町の田村に移り住んだころ、神奈川の5つの生協が合併して神奈川生協が出来た時に、初めて生協の理事を引き受けられました。地元で生協の中型店を作る運動をしたが、さまざまな困難に出会い、結局断念せざるを得なかったそうですが、その時に市会議員にも何人もお願いに行ったが誰も応援をしてくれなかった。その後、小型店を作るときも一日中歩き回って一人でも多く組合員を増やしたこと。そのとき「何かをやろうと言う時はその思いがどれだけ強いかによって達成できるかどうかが決まる」と自分に言い聞かせていた、ということを伺って、信念を持つことが如何に大事か、と感じました。

「何事にも始まり物語がある、みんながやろう、と決めて始まったら歯車は回り始める。理屈を言っていても何も始まらない。理屈は後からついてくる。まず行動することで、あとからその行動に理論付けをすることが出来る。それが私の生協での行動でした」とお話をされましたが、それはまさに大藏さんの人生そのものではないかと思いました。

大藏氏

 ロッヂデールの労働者から始まった協同組合ということに心底惚れこみ、協同組合の起こりというのは人間が生きていく上でより良い暮らし、より良い生き方を求めるための原点であり、これこそまさに協働であり、ロッヂデールの初めて物語の精神である。それを原点に平塚の共同型社会を作り上げている。その意味で生協との出会いはそれほど大きなものだったとおっしゃっていました。 その後は平塚市議会議員へ、そして平塚市長へと歩まれていくわけですが、大藏さんのパワーは本当にあらゆる機会でフルに発揮されました。

生協での活動を終えたころに、自分の生き方は一面的であり、生協に偏っていたのではないか。世の中はもっと多面的であり、生協が地域で認められていくためにはもっと色々な人々と行動を共にしていかなければいけないのではないかと思うようになったそうです。中型店舗をあきらめた後に小型店の出店活動に奔走した時は、中型店出店では反対していた地域の商店の方々が応援してくれるようになった。それは地域の青年部のことや環境のことなど、地域の活動を自分から買って出て行ってやっていたから。地域社会で自分の存在が認められるような行動があった時、私のやりたいと思うことも他が賛同してくれるということをその時に知った。そこでもっと社会教育の分野から世の中を見る必要があると思うようになったそうです。

 

 平塚市の場外馬券売場反対の行動を共にした会を存続させ、平塚市の「母親の会」としていろいろなことを学び行動を続けて地方自治の現場の調査などをしていくうちに、これでも民主主義と言えるのかという議会の実態がわかった。平塚市でも非核宣言を、と署名運動を行い、議員にもお願いにいった時は、どの団体とつるんでいるのか、誰から頼まれているのかという反応だった。自分たちで考えた、ということばが通用しない世界があることを知った。議会に請願をする時は紹介人がいないと請願権も行使出来ないことを知った。そこで住民運動の中から自分たちの市会議員を出そう、ということで推薦立候補という形で大藏さんが出馬することになったそうです。100円カンパを集め、全てボランティアによる選挙運動。自分は鹿児島、ご主人は大阪の出身で、親類縁者は一人もいない平塚市での選挙。支えてくれたのは大藏さんと一緒に活動してきた多くの仲間たちでした。 小さい頃から男女の性差を意識しないで育ってきた大藏さんが初めて差別を感じたのは就職をした時。男子職員よりも多くの仕事をしたり業績を残したのに給料差があることに気づいた時です。だから女性が議会の場に一人もいない、政策決定の場に一人もいないのはおかしいと感じて議会に出て行った。公職選挙法を勉強し、100円の寄付でも領収書を切るといった徹底したクリーンな選挙運動を行ったそうですが、出費70数万円に対し、100万円以上のカンパが集まり、残金はその後の活動のために機器を購入したり事務所を構えて誰でも自由に出入りできるようにしたそうです。

 

 選挙では必ず推薦立候補の形をとった。それは出たい人よりも出したい人、ということ。日本の候補者で4期とも推薦立候補というのは大藏さんだけだそうです。しかし、いつまでも同じ人間が出ていて、若い人につながっていく行動でなければ意味がない。すべての行動がそうだと思うが、どんな小さな組織でもつながっていかないと。作った人だけで終わるのでは何の意味もない。将来につなげるには同じ人がやり続けるのはダメ、ということで4期で議員を終えるつもりでいた大藏さんは、その時の平塚市長選では3期目をめざす現職市長の他に対立候補がいない、ということがわかった。25万都市で無選挙で市長が決まるのは良くないと思っていたが、自分がやろうとは思っていなかった。そんな中で市民が作る市長という行動が起きて、推薦をして候補者を出そう、ということで大藏さんになったそうです。

4期16年間市会議員をやってきて、皆が力を出し合い支えあってこの町を作り上げていこうということならば、市長というポジションは願ってもないもの。それなら挑戦しよう、選挙をしないで市長を選ぶことだけは阻止しよう。風通しのよい市政運営、市民の声が届く市政運営を、ということで市長選に出たそうです。

 

現職の市長との一騎打ちとなった市長選は大藏さんの勝利。市民の大方の予想を覆しての当選で、ほとんどの方がこんなことになるとは思わなかったそうです。 平塚はやはり保守的な町だと思うが、どんな人もやりたいと思ったら参加できる場、全ての人が参加できるような場づくりが行政のやるべきこと。25万市民の中には多様な能力、技能を持った方がたくさんいる。そういう貴重な財産を如何に引き出して力を発揮してもらうか。これこそがまさに協働型社会と思っている、ということで最初に取り掛かったのは公約に掲げていた自治基本条例の作成でした。

3年以上かかったそうですが、その一番に位置付けたのは協働。自治力のある市民、地域が協働の力で生み出されていかないと将来の人たちに責任を持てる町にならない、ということで今、一番力を入れているのは「地方分権」から「地方主権」。地域の一人ひとりの力を結集して自治をどう高めていくかということを持続していく町のキーポイントととらえ、協働推進課を設けて地域住民のそのような組織作り、町づくりに力を入れているそうです。

人は皆、支え合い、つながりあって社会は快適に過ごすことが出来る。自分の声が反映された時に納得の行く町づくりになるはず。自分が積極的に関わることで自分自身が納得できる。私は自己満足を得るために、すなわち自分を納得させるために今日まで社会参加という行動を続けてきた、とお話を結ばれました。 生協は命、というくらい、生協の理念に基づいた人生を歩んでこられたこと。その人生そのもので協働型社会を目指し、実現しようとしている。そのパワーのすごさには本当に感心せざるを得ませんでした。「私の社会参加−協働型社会を目指して」というテーマでお話をいただきましたが、皆で力を合わせて何かをしよう、何かを作り出そうという気持ちを絶えず持ち続けて行動してきたことに感動しました。 薩摩おごじょらしい毅然とした姿勢。前向き、ひたむき、粘り強さ。自分がやりたい、と思うことをやり、信念を貫く。しかし、人々とも共に歩む。

 

 こんな理想の生き方を実践している大藏さんに会場の誰もが心打たれたことと思います。また、生きていく上でたくさんのヒントを得たことと思います。 講演を依頼した当初、「キュービックの皆が元気の出るようなお話を」とお願いしました。そのお願いを実に見事にかなえてくださった大藏さんに心から感謝した講演会でした。

 

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